北条氏政書状(北条氏政之状)

(天正一一)(一五八三)年
差出 北条氏政
宛所 関東公方連判衆

足利義氏の葬儀について、北条氏政が追って指示する旨、「関東公方連判衆」に伝えた。義氏には男子の後継者が無く、娘・氏姫が事実上の相続人となった。関東公方連判衆は氏姫を支えた宿老(重臣)。


北条氏政書状
釈文

四日之芳墨今六日到来、并陸奥守所へ委細之条々被露之候、得心申候、然者御葬礼之儀、先御代々之模様不存候間、至于時申達候、其上於境目加様之取成、令思慮故一端之愚意候、畢竟於御当城成共無異儀、至于仕置者、各可為御随意候、曲時分虎口故陸奥守遅参努不可有無沙汰候、委曲陸奥守可申入候、恐々謹言、

 正月六日 (天正一一年)    氏政(北条)(花押)
 芳春院(松嶺昌寿)
 一色右衛門(氏久)佐殿
 町野備中(義俊)守殿
 小笠原兵庫(氏長)頭殿 
 高太和守殿
 簗田右馬(助実)助殿
 徳蔭軒(三伯昌伊)

読み下し文

四日の芳墨今六日到来す、ならびに陸奥守(北条氏照)の所へ委細の条々これを露わされあら、得心し申し候、しかれば御葬礼の儀、先の御代々の模様存ぜず候間、時に至り申し達し候、其の上境目に於いてかようの取り成し、思慮せしむる故一端の愚意ぐいに候、畢竟ひっきょう御当城においてなりとも異儀無く、仕置きに至っては各御随意たるべく候、くせの時分虎口故こぐち陸奥守遅参ゆめゆめ無沙汰有るべからず候、委曲陸奥守申し入るべく候、恐々謹言、