山中長俊書状(山中橘内之状)

(天正一八)(一五九〇)年
差出 山中長俊
宛所 御連判衆(松嶺昌寿ほか六名)

喜連川国朝に三千石の領地が宛行あてがわれたが、これとは別に国朝にした氏姫にも「堪忍分かんにんぶん」として、三三二石が宛行われた。「堪忍分」とは隠居いんきょや幼少の相続人などに与えられた生活を支えるための知行ちぎょう扶持ふちのこと。


山中長俊書状
釈文

芳翰拝読候、仍御腰物師光被贈下之候御懇情、本望存候、就其今度者
殿下様御一宿之刻、御仕合能上﨟之御方御出仕、因茲雖少分候、姫君様御堪忍分之儀被仰出、先以可然存候、為其御礼旁ニ遠路之所上﨟御越候、御大儀千万候、孝蔵主引付申候、彼是旨趣言上候、弥首尾可然時分、何分ニも可致馳走候、於已来聊不可存疎略候、心事連々天徳寺へ可申顕候、委曲上﨟御方鳳桐寺口上ニ申渡候、其元之儀彼是増田方へ書状遣候、有御内見、以天徳寺早々可有御届候、恐々謹言、
            山中橘内
 八月廿二(天正一八年)日        長俊(花押)
  芳春院(松嶺昌寿)
  永仙院(三伯昌伊)
  一色右(氏久)門佐殿
  町野備(義俊)守殿
  小笠原兵庫(氏長)頭殿
  高修理亮(氏師)殿
  梁田右(助実)助殿
   各
    御報

読み下し文

芳翰ほうかん拝読候、よって御腰物師光これを贈り下され候御懇情こんじょう、本望に存じ候、其に就き、今度は
殿下様(豊臣秀吉)御 一宿の刻、御仕合せ能き上﨟じょうろうの御方御出仕、ここに因り、少分候といえども、姫君様御堪忍分の儀仰せ出だされ、先ず以て然るべく存じ候、其の御礼として、かたがたに遠路の所、上﨟御越し候、御大儀千万に候、孝蔵主引付け申し候、彼是かれこれの旨趣言上候、いよいよ首尾然るべき時分、何分にも馳走ちそう致すべく候、已来いらいにおいて、いささか疎略に存ずべからず候、心事連々天徳寺へ申し顕すべく候、委曲いきょく上﨟御方鳳桐寺口上に申し渡し候、其元そこもとの儀彼是増田方へ書状遣し候、御内見有り、天徳寺を以て早々御届け有るべく候、恐々謹言、