豊臣秀吉朱印状(頼淳公江秀吉公ヨリ御朱印之御書)

(文禄二)(一五九三)年
差出 豊臣秀吉
宛所 喜連川(足利)頼淳

「高麗陣」は豊臣秀吉が朝鮮半島に軍を進めた「文禄ぶんろくの役」のこと。喜連川国朝も動員されたが、途中の安芸あき国(広島県)で急死したため秀吉が国朝の父・頼淳よりあつに出した悔やみ状である。宛名が「鎌倉頼淳」となっており、秀吉が喜連川家を鎌倉公方の後継こうけいと認識していたことがわかる。


豊臣秀吉朱印状
釈文

高麗陣為見廻、
遠路使者、殊雁
俣百・靏二・熊皮
二枚贈給候、悦覚候、
就中渡海為供奉、
国朝発足感入候、然
処不慮之仕合痛敷、
御心中察入候、委細
山中橘内(長俊)可申候、恐々
謹言、
 二月廿(文禄二年)八日 秀吉(朱印)
 鎌倉頼淳

読み下し文

高麗陣の見舞いとして、遠路使者、殊に雁股かりまた百・鶴二・熊皮二枚、贈りたまい候、よろこびを覚え候、就中なかんづく渡海とかい供奉くぶのため国朝発足ほっそく、感じ入り候、しかる処、不慮之の仕合しあわせ痛ましく、御心中察し入り候、委細山中橘内きつないに申すべく候、恐々謹言、