足利氏満書状(氏満公御判物)

(永徳二)(一三八二)年
差出 足利氏満
宛所 不明

所領をめぐる争いで康暦二(一三八〇)年、小山義政が宇都宮基綱もとつなを攻め滅ぼしたため、鎌倉公方・足利氏満は義政の討伐を命じた。永徳二(一三八二)年、義政の拠点の祇園城ぎおんじょう(小山市)が落城したことを氏満が了承した旨を伝えた書状で、「喜連川文書」中、最古の文書である。


足利氏満書状
釈文

祇園城没落、誠目出候、就之承候条、
畏入候、恐惶敬白、
三月廿(永徳二年)九日   氏満(足利)(花押)
(宛所欠)

読み下し文

祇園城没落、誠に目出候、これにき承り候条、
かしこみ入り候、恐惶敬白、